家族はみんな仲良く
私たちの生命(いのち)は、どこから来て、この世の寿命が尽きた時は、どこへ向かっていくのでしょうか。仏教では、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を輪廻して、生まれ変わりを繰り返すと言われています。そして今、仏法を学ぶことのできる「人間」にやっと生まれてきたのです。
お念仏の元祖法然上人は「うけ難き人身(にんしん)をうけて」と仰せになっています。しかし人間には、煩悩・毒があります。大人でも親であっても三毒(貪り・怒り・愚痴)という代表的な毒があると仏教では言われています。毒をもった大人が子を作り親となる。子どもが年頃になるとお互い人間ですから当然、親子の間で言い争いをして、もめることもあります。私がこの世に生まれてくるには、親無くしてはありえません。私たちはどういう「生き方」をすればいいのでしょうか。
善導大師様の『観経疏』(序分義)には「孝養父母」の教えが最初に説かれています。お釈迦様在世のころ、インドで大飢饉があり、人々は飢えに苦しみました。教団の比丘僧たちは、修行の托鉢を自粛してはどうかと話し合いましたが、お釈迦様は「人々が食物のないことから心を忘れ、信仰を失い、迷うようなことがあってはならない」と一人で町に托鉢にお出掛けになりました。托鉢は午前中しかしてはならないという掟があります。一日目、二日目と、お釈迦様に施しをする者は誰もいません。三日目。お釈迦様のおやつれになった姿を見た一人の比丘僧が「お釈迦様、今日のお食事はまだでしょうか?」と問いました。するとお釈迦様は「今日のみならず、三日間施しはなく、話をすることも困難な状態である」と話されました。比丘は驚き涙を浮かべ、「恩師であり供養を受けるべき聖者であるのに、この有様のなんといたましいことか」と比丘は、身に着けていた三衣(三種類の袈裟)を売り、食物を買いお釈迦様に施しをしました。すると、すべてをご存じのお釈迦様はわざとそしらぬ振りをして、比丘にとって大切な三衣を売り、食物を手に入れた経緯を聞くとお話されました。
(釈迦)「そなたの尊い志は喜んで受けるが、その施食を口にすることは出来ないぞ」。
(比丘)「……。」
(釈迦)「そなたのご父母は存命していますか?」
(比丘)「はい。存命しています」
(釈迦)「それならば、この食を父母に供養しなさい」
(比丘)「いいえ!お釈迦様が口にされなかった食を、私の賤しい父母になんて。
そんなことはとてもできません」
(釈迦)「いや、そうではない。なぜならば、父母はそなたの身体を生んでくれた人。
あなたにとって最も大事な重恩の人。
そなたの父母こそこの尊い食物を受けるに足る人である。
比丘よ、あなたの父母は、仏の教えを信ずる心がありますか?」
(比丘)「いえ、信心の様子はありません」
(釈迦)「それならば、今こそ信心を起こさせる機会!あなたの食物を父母は喜び、
これを機会に信心を起こすでしょう。
さあ早く持ち帰って、父母の恩に報いなさい!」
比丘は涙を流しお釈迦様に合掌礼拝し、親元へ急いだのでありました。
なかなか親に感謝の誠が捧げられない、こんな私達ではありますが、「私を産んでくれてありがとう」と心で念じ、両親、ご先祖様への感謝を心掛けたいものです。
信仰を通して、「私が!私が!」という悪い自我を捨て去り、素直で正直で美しい「心」にならせていただく。そして何よりも、家族みんなで仲良くしたいものです。これが私たちの「生き方」ではないでしょうか。
善導大師 (宝蔵寺蔵/平成27年修理)
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